食べるはいつから 食べるはこれから 〜博物館から始まる食育〜

〜博物館から始まる食育〜 私たちにとって最も身近で重要な「食」。科学と歴史の知識を培いながら、何を、どれだけ、なぜ必要なのか、を深めていくと、生きるヒントがたくさん見つかります。日本国内のすぐれた博物館で、ぜひ触れてみましょう。

「食べる」の課題

これまでの人類の歴史を1日24時間に置き換え、今を24時ちょうどとすると、23時59分までは飢餓との戦いにあった(1)、と言われます。
狩猟採集の生活から、農耕牧畜をし始めたころから、人類とその生活は大きな変貌を始めます。
土地を選び、耕し、衣食住を可能なかぎり効率化することで、飢えを防ぎ、また子孫を増やすことに成功したのです。こうして、人類は文明を築いていきます。紀元前7000年ころ、発生したとされるメソポタミア文明には、農耕牧畜が行われていた証拠が見られる、とされています。

自然の脅威に翻弄され、常に飢えと死とに隣り合わせていた生活から、自らの手を加えて環境を変え、生き延びることを叶えた人間はその後も、たゆまぬ学習と研鑽をつんで、自然のしくみを理解し、利用することを可能にしてきました。
これは、単に人間のもつ能力が、知恵だけではなく、未来に希望を抱き、忍耐する、という力をも持ち合わせていたからです。すなわち、「原因と結果の予測と計算」の能力が優れていたのです。
「希望」も「忍耐」も、私たちは学校で美徳と教わるものですが、そもそもそれを美徳と決めた理由は、何だったのでしょう。その結果が、その個人だけでなく、ほかの多くの人間に恩恵を与えたからなのかもしれません。悪く言えば、計算高く、しつこい、とも言い換えられるのですから。

ともあれ、結果、それら多くの努力と獲得した知識は、集大成として現在の文明社会の礎となっています。血と汗と涙で築き上げた文明社会で、私たちは、果たしてその石垣となる石を積み上げて来た賢人たちの思うような幸せな社会に暮らしているでしょうか。

飢えから離れ、多くの病を克服できるようになったはずの現代社会で、なぜこうも自殺が多いのでしょう。なぜ、私たちは幸せになれないのでしょう。

近年増加する心の病の根源が、脳のしくみにあるとする説が注目されています。
そこには、農耕のはじまりこそが、心の病の起源に関わっている(2)、とされています。
人の脳には、他の動物と同じ部分があります。そこには厳しい自然の中で生き残るために、同じ種の生物どうしは平等で協力しあうことがインプットされています。そうすることこそが、生き抜くための前提条件であり、そうしあえることが「幸福」であると判断するようにプログラムされています。わずかな食べ物を隣人どうしでわけあい、喜びとすることで、その種が生き抜く戦略としたのかもしれません。

しかし、農耕をすることで、私たちは飢えを克服する一方、富を築くようになりました。富を築くことで、それまで分け合い、平等であったはずの社会は格差社会へと変貌しました。分け合うことの喜びを感じることは減り、脳はバランスを崩す、といいます。
さらに、国家ができると、民を食べさせるために、戦争が起きるようになりました。
人間のもつ鋭い感覚や察知能力は、自然に対してではなく、人間に向けられるようになり、疑い、恐れ、憎み、怒るようになりました。
農業をはじめたことで、人にとっての敵は自然から人へと変わったのです。

参考:
(1)世界ふしぎ発見:2014/05/24放送「ダイエット」 
研成社「食べて、食べられて、まわる」高橋英一 著 P.119 

(2)NHK「病の起源:うつ病」 2014.1放送

学習と努力をいとわない人類は、その後も、生活を豊かにするために、多くの研究をし、医学、科学いずれも、まさに禁断の領域に達しようとしています。
そのなかには、私たちが決して望まない未来予測も、科学的な証拠をもって明らかにされています。
人類を死の恐怖から遠ざけることを大いに叶えてきた医学発展の一方で、地球科学は、その資源に限りがあることを証明しています。
人間は、この地球上で無限に増殖できる能力と手段を持ちながら、それを維持する資源は有限であることを知ってしまったのです。
増えることこそが、生物たる根源で、そこにこそ生きる喜びと目的があったはずなのに、何と言う事でしょう。私たちは、その方法と限界を、同時に見つけてしまったのです。

しかしながら、実は、この結果を導き出す前に、人類は、産業革命以降の大量生産、大量消費の生活に、様々な負があることはうすうす気づいていました。それでも、便利に豊かになっていく生活を味わい、様々なことを可能にしていく人類であることを誇りにさえ感じていたのです。小さなうしろめたさに気づかぬふりを通してきた人間が、その現実に目を向けざるを得なくなった大きな機会になったのは、PCB問題が起こった1960年代でしょう。夢の物質とまでいわれたPCBは、今や、悪夢の物質に変わり果てました。化学依存の、とにかく生み出す一方の産業社会に、「片付ける」能力のないことに気づき、疑問符が投げかけられたのです。

さらに、その現実を目の当たりにする後ろ側では人類の爆発的な増加が止まらず、気づけば、もはや大量生産、大量消費がなければ、人類は生きて行けない、後には引けない状態になっていました。
先には崖しかないのに、後ろ足は歩みを止めないムカデのように、私たちはこのまま資源を喰い尽くし、自ら自滅の道を歩まなければならないのでしょうか。
ムカデの頭は、今おおきく向きを変えなければいけない局面に立っているのです。それは、このような事態を招いた産業先進国すべての人々に課せられた緊急課題です。子や孫に託すのではなく、私たち自身が、いま、向きを変えなければなりません。

参考

環境省 PCB問題について
(https://www.env.go.jp/chemi/pcb2/06.html)

http://www005.upp.so-net.ne.jp/yoshida_n/L3_01.htm

http://www.scj.go.jp/omoshiro/nobel/muller/muller2.html

自らの欲望を限りなく実現することを可能にした私たちは、結果、その追求の果てには必ずしも幸福は存在しないのだ、というひとつの結果を手に入れました。これは、ある意味、大いなる実験で得た成果である、といえるかもしれません。
欲求を叶える一瞬一瞬は幸福であっても、それを果てなく繰り返した結果は、決して幸福ではないことがあるのです。
その代表例が食にあります。好きなものを好きなときに好きなだけ食べられるようになった人類。食べたそのときは、満足しても、それを際限なく繰り返した先には、肥満や、代謝異常、あるいは、感覚や神経にも異常をきたします。一瞬一瞬の満足を繰り返しても、結局、何からも開放されないのです。
かといって、様々な問題や課題を抱えながら長い人生を送る私たちには、その一瞬一瞬の幸福は大切である、とも言えます。

「おいしい」「うれしい」など、脳の最も基本的な部分で感じる幸福を得るための欲求の実現は、やはり必要なことであると言えます。
しかし、その欲求の発生理由や、量は、実にいいかげんであることもわかっています。かならずしも、必要な時に発生しませんし、その量も適当でないことがあります。
それは、この人口過密で、実に入り組んだ難しい社会で多くのストレスと戦うからこそなのかもしれませんが、地球環境に作用するほどの力をもった人間の活動の根拠となりうる欲求は、それを根拠とするにはあまりに「曖昧であること」を、理解しておかなければなりません。
際限のない欲求に従っても、私たちは、必ずしも幸福になれないのです。
それを理解し、欲求をコントロールする知識が必要になってきています。
自然や他者への作用に、知恵を絞ってきた人類は、今、自分自身のコントロールに迫られているのです。これまで向き合った、どの相手よりも難しい相手だと言えるでしょう。

欲求の実現こそが、幸福な人生を実現することなのだ、と、多くの人類はつい最近まで考えていました。しかし、飽食や環境破壊による影響が身に迫るにつれ、その欲求実現主義こそが地球をヒトが住めない星へと変えているかもしれないのだ、と気づき始めています。
しかし、一度手にした便利さは、そうそう手放すことはできません。
私たちは、あって当たり前の生活に慣れすぎてしまいました。
もう、我慢したり、手間をかけたりすることを、人生のどの場面においても想像できないかもしれません。どんなに美辞麗句を並べても、実際に自分が苦しんだり、悩んだりすれば、権利を盾に、富と時間を取り戻そうとするでしょう。
他者を信用できなくなった私たちには、将来を保証する富、すなわち蓄えが必要です。さらに、より多く自分のための時間をもとうと思えば、効率的に作業をすることが必要で、そのための道具と、場合によってはエネルギーも必要です。
蓄えと時間やエネルギーを得るには、それだけの食糧と物質が必要です。それがすべての人に行き渡るには、莫大な量の作物と、膨大な量の物質が必要になります。
他者を信用できなくなった代償はあまりに大きいことを思い知ります。
さらに、ありあまる物質社会で培われた価値観では、困ったときに権利を行使するのは当然で、その結果、当然、獲得すべきものは獲得する、ということになります。
こうして、欲張りであることを、権利であると勘違いしてしまった私たちは、まったく我慢のできない人間になってしまったのです。

およそどこの先進国でも、「ないと我慢のできない人間」が多いと予想できます。しかし、私たちは、今大きな転換点にいます。思い切った変更をする必要があって、それには、我慢が伴います。我慢を必要としない劇的な転換をできるための、大発明を期待していましたが、それもどうも間に合いそうにありません。

まずは、すべての人類がすこし我慢することを始めなければなりません。しかし、この少しの我慢には、とりくむすべての人類の理解が必要であると同時に、実はもっと深いところの変換も共有しなければなりません。それは、産業革命以降に構築された価値観を大きく変える、ということです。
その了解を得るには、やはり国や民族を超えた相互理解が必要なのです。

今、私たちは、限られた地球の資源を、分け合い、互いの存在を大切に思わなければならない時がきています。
多くの戦争を繰り返してきた私たちですが、それぞれの苦い経験を共有し、いかに地球上のすべての人類が、生物が幸福でいられるかを、全員で考えなければならない時代がやってきました。
大変、難しいことかもしれません。
しかし、それが叶えられたら、きっと、人類は新しい地球時代を開拓できるのだと、私は思います。

さて、「食べる」という、私たちがごく当たり前に行っていることが、生物が生きるうえで、いかに根源的な行動であるかがおわかり頂けたでしょう。
私自身、次々湧き出る様々な疑問を調べるにあたって、本を読んだり、博物館の方に教えて頂きながら、驚いたり、感動したり、また今さらながら大きく合点したりの連続でした。

実は、健康に繋がる食生活について述べるとき、それを聞く方の皆が皆、必ずしも、それに向って積極的でないこともあります。
それはそうです。やらなければいけないことに追われて、忙しすぎるような人にとっては、とにかく空腹だけは満たし、つぎつぎと役目をこなしていくことのほうが大切で、とりあえず今は、バランスを考えて、なんてことは後まわしにしたいところでしょう。
そういう時期は、それに邁進すべきで、聞く耳をもてなくも当然だと思います。もちろん、できれば、きちんとした食生活について、頭のすみで解っていてもらうと、とても役に立つことなので、無理にでも、としたいところですが、しかしながら、実際、私たちは食べるために生まれて来たのではありません。人間として生まれて来たということは、人間として行える活動をするために生きるのです。
ですから、その勢いやリズムがついているときは、それを優先したほうがいい、と私は考えます。
実際、気力にあふれる時期は、少々の不摂生があっても、意外にもってしまうものです。
しかし、不摂生に不摂生を重ねると、やがて気力はあるのに、体力がついてこない、ということになってしまいます。
さらに、若い時期を過ぎると、とくに気力だけでは足らず、基本的な栄養摂取ができているかどうかが、パフォーマンスの質に大きく関わってきます。
忙しさが一段落した暇にでも、改めて聞いて頂いて、バリバリを仕事をこなしていってほしい、と思います。

でも、それとは違う事情の方もいます。私たち人間は、考える生き物で、長い人生の中では、時にすべてが煩わしく、むなしく、辛いこともあります。生きることに前向きな気持ちになれないときがあるのです。

「食べる」ということは、直接生きることに繋がる、非常にポジティブな行動であるといえます。ですから、生きる希望を持てないとき、そこに直結する「食べる」ということに積極的になれないのは、当然のことです。

確かに、いくら健康で、長寿を得た現代にあっても、私たちは死を克服したわけではありません。有性生殖の生物に属する私たちは、ひとりひとりが特別な個性を持った個体として生まれ、いずれ死に行く運命にあります。それなのに私たちはなぜ生まれたのでしょう。
この疑問をだれしも、一度は持つのではないでしょうか。
なぜ、私たちは生まれたのか。

実は、この問いにきちんと向き合うことは、食べることを大切に考えなければならない私には、とても重要なことでした。
生きるかぎり、私たちは食べなければなりません。逆に、食べられなくなった時、生命は存続の危機を迎えます。
自発的に食べたい、と思うには、ベースに「今はまだ死にたくない、明日も生きねばならない」と思うことが必要なのです。
そして、生きたい、と望むには、生まれたことを肯定しなければならないのです。

この本を書くにあたり、宇宙や地球のなりたち、生物の発生などに関する多くの研究結果に出会いました。私が知り得たことは、膨大のデータのうちのほんの入り口のわずかな部分でしょう。しかし、そこから見えたことは、「これまでに起きたすべてのことは、決して偶然ではなく、おこるべくして起きたことだったのだ」ということでした。だから、私たちは、生まれるべくして、生まれたのです。そしていつか、寿命を迎えるか、あるいは別の理由でこの世を去る日がきても、それはやはり起こるべくして起こるのだろう、と考えています。

私たちの存在は、ほんとうにちっぽけで、地球という星の中でうごめく成分のなかの、一点でしかないのかもしれません。そして、広大な宇宙の中においては、一瞬の出来事なのかもしれません。それでも、「そこに間違いなく、存在するべくして存在した」ことの荘厳さに気づくと、自分や周囲の生き物が生きている事の「正しさ」がわかる気がします。

私やあなたが生まれ、存在すること自体は正しいのです。今、命があるということは、その正しさが持続している、ということなのです。さらに、お腹がすくということは、明日もその正しさが続く可能性の現れなのです。

どんな明日が来るかは、誰にもわかりません。大方、苦しい事やつまらない事がまっているのでしょう。でも、命あるかぎり生き、お腹がすいたら食べて、命の可能性を保ち続けられれば、少なくとも、「生きる」という絶対的な正しさに背いてはいないのです。
未来の「生きる」に繋がる「食べる」は、すなわち、「正しさを貫く勇気なのだ」とさえ、感じます。

人間の繁栄における自然破壊などを考えると、私たちの存在は悪であるのではないか、という気もします。しかし、今、私たちは、「知る」ことで、新たにすべきことを見つけようとしています。何が、維持をもたらし、何が破滅をもたらすのかも、多くの歴史を経験として、知ることができるのです。生きるとは、やはり、決して楽なことではない、とつくづく感じます。

だから、今日も、お腹がすいたら、体が「生きるべきだ」と言っているのだと思ってください。
そして、その声があるかぎり、勇気をもって生きていきたい、と私は思います。

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